ぼくのメジャースプーン

 

 

本を久しぶりに読みました。なんでもかんでも好きなものに結び付けたがりなので整理させて下さい。

本の感想でもなんでもなくお得意の自分語り

 

 

サンタクロースはいるのかいないのかという話題で「ぼく」がクラスメイトと対立する場面がある。いると信じている「ぼく」最初は味方だったはずの友達もいない派になってしまい、責められ親まで貶され自分の境遇をバカにされてしまう。そして最終的に周りに合わせて「そうだよね、いないよね」と笑って答えてしまう「ぼく」に対して ふみちゃん は「偉い!」と褒める。「あそこで負けを認めなかったらもっと酷くなっていたよ。本当は正しいのにみんなの為に負けてあげたじゃん、偉いよ」「サンタさんがいることも、信じていることも正しいし、なのに負けてあげたことも全部正しい。偉い。」

実はふみちゃんはサンタさんがいないことを幼稚園の頃に知っていた。知っていたけどふみちゃんは「ぼく」に対して正しいと判断した。
自分の中に何が正しいのかをきちんと用意して持っていた。

 

 

 

最近担降りブログを読んでる。執着心や嫌悪に塗れた暴力的なものではなくすごく清々しくて綺麗なほうの。私の仲いい子にこのタイミングで降りる子は1人もいなくて私もそうだから去っていく人の文章はどれだけ優しくても自分が否定されてるような気がしてあまり得意ではなかった。

でも、事実がどうとか何が正しいとかではなく、それぞれが用意している「正しさ」を信じていくことで気持ちが昇華されていくのかなと思った。

同じ人を見ているはずで同じ言葉や景色を受け取っているのに私の感じていることと正反対だった。それなのに凄く綺麗だと思った。

 

 

5人の幸せを願うこと ひとりじゃないよってちゃんと変わらず愛しているよって伝え続けたい

いつかまた夢を、と夢を見ずにはいられない

一緒に生きる、生かされている事には変わりないけどもう私自身の中にその存在が溶け込んでいるから離れるとかそういう次元の話ではない

そんなふうに私は私の正しさを信じている。

 

 

そして現在進行形で私なりの大橋くんへの正しさを創っていると思う。優しいから好き。全肯定の人だから好き。いつも笑っていてくれるから好き。こういう始まりの気持ちは今も同じように持っているけれど、好きな理由が性質ではなくて「大橋くんだから」になりつつある気がしている。

 

 

私は何かに寄りかかってないと生きていけないもので、嵐やなにわ男子とか好きなものに対して好きだ!!!ってなってる自分の事は好きだから、多少嫌なことあっても好きで居続けるための思考に切り替わる。

 

傍からみたら現実逃避してるように見えるのかな。目に見えないものを信じて必死になって、可哀想に見えることもあるのかもしれない。でもこれが私の正しさでこれを信じている。

 

担降りしていく人、大好きだった人を良く思えなくなってしまう人を見て寂しいなぁとかそんなことないのにって思ってたんだけどその人の信じる正しさが変化しただけで価値が下がった訳ではないんだなと思った。

 

 

なんかちょっと最近荒れてたじゃないですか

 

にのちゃんのことはアンチとかそういう言葉は気にならなくて酷い人もいるんだなとしか思わない。会見後に「今すぐ我々が前を向きすぎたらついていけない人もいるから」って言葉をかけてくれて凄く救われた。無理かもって思った時はその言葉に縋った。いつもにのはみんなと違う目線で泣いてる人の気持ちを肯定してくれる。天邪鬼で言葉ではツンツンするのに嵐といると全身からだいすき〜が溢れちゃうのも知ってるから。誰よりも優しくて寂しがりで愛情深い人だから。好きで居続けるために頑張らなくても過ごしてきた時間とくれた愛情があったから、許せるって言い方したらおかしいけど嫌な気持ちにはならなかった。

(結婚のタイミングと櫻井くんが文春で連載()してたのはどう頑張ってもプラスに解釈出来なかったのであれはなかったことにしてる笑)

 

 

なにわ男子とか、大橋くんのことになるとまだそれが出来なくて落ち込むし誰かの語る大橋くんにモヤモヤしたりしている。自分でもよく分からないけど人の目とか評価がすごく気になる。私の好きは間違ってないって思いたいんかな。だってまだ1年経ってないのびっくりだよね。好きすぎて、のめり込み過ぎて忘れちゃうけどあまりにも守るための手玉が少ないなぁと思う。早く私の信じる正しいに対して自信を持ちたいな。

 

 

 

誰かが死んでそれが悲しくて泣いても、結局はその人がいなくなっちゃった自分の事が可哀想で泣いているんだって。人は自分の為にしか泣けないんだ。

 

まさに、そう。

当たり前のように自分の人生を預けていて、幸せでいてねと願っているはずなのにいつも嵐が救ってくれるのを期待していた。自分が楽しく生きたくて自分の為に好きでいた。だから嵐がお休みするよって言った時に5人の選択が正しいって嵐らしいって頭では理解していたのに、自分のこれからの心配をして絶望的になったよ。でもずっと見てたら翔くんの方がいっぱいいっぱいだったから翔くんのお誕生日のブログでもかいたけど、求めることをあまりしなくなって願うようになっていたんだけどね。どれもこれも考え詰めていくと自分の為なんじゃないかって押し付けてるだけなんじゃないかって怖くなる時がある。

 

 

求めずにはいられないのか、自分の人生を誰かに託さずには生きていけないのかと実感したのはそれを今大橋くんに対して思っていると気付いたから。ごめんねの気持ちでいっぱいよ。大橋くんが楽しくて嬉しくて笑う日が沢山訪れたらいいなって本気で思っているけど、そうして笑ってる姿を見ると私も笑えるから心が楽になるからそう思うだけなんじゃないかとか。

みんなのこと受け入れて求められる自分になろうとする大橋くんを見て「やりたいように生きてね」と思ったり、物事を俯瞰的に見てもっと頑張らなきゃと鼓舞する姿に「今のままでも素敵だよ」と言うのは身勝手なのかなとも思ったり。自分の選んだものを正しいと思えるように頑張る人なのかなと思うから変な心配はいらないんだろうなって、それでも彼の中の正しさを知ることは出来ないし、私は私の基準で願ったり悩んだりしていくんだと思う。

 

 

自分勝手だなと思う。好きなものに夢中になっている時は自分の事を大事に思えるし、愛されてるなって実感したいだけで相手の為なんかひとつもないんじゃないかと思う。

こんなに好きなのにな

苦しい顔してたら私も苦しいし、楽しそうにしていたら私も楽しいのに

自分の為だ!って割り切れたらいいんだけどそれもなんか冷たいような気がして。

 

 

責任を感じるから、自分の為にその人間が必要だから、その人が悲しいことが嫌だから、そうやって「自分の為」の気持ちで結び付き相手に執着する。その気持ちを、人はそれでも愛と呼ぶんです。

 

 

私が嵐や翔くんに抱く感情は間違いなく愛。

そういえば、ファンの希望を全て叶えることは出来ないから自分たちのやりたいことをやる届けたいものを届けると話してくれたことがあった。気付かないうちに同じような愛を受け取っていたのかもしれないね。

 

私は今こういう愛しか持ってないから同じように大橋くんのことも愛だと錯覚してるのかな。

違うのは分かるんだけど、何なのかは分からない。大好きだなぁと思う。

笑顔は繋がっていくものだから、みんなで世界を幸せにしようねと言われた時に必要とされているのかもと嬉しくなったよ。

 

 

自分のために一生懸命になってくれる誰かがいること。自分が誰かにとってかけがえのない人間であることを思い出すことでしか、傷付いた心は修復されない。

 

 

私が今両手にいっぱい抱えてる大切な人やもの

嵐と翔くん、なにわ男子の大橋くん

あとゆずの音楽も私を形成するものの一つ。

私にとってのあなた方がそうであったように

あなた方にとって私もそうでありたいなと思いました。

 

 

次は名前探しの放課後を読む!

おしまーい